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マディ・ウォーターズのフェイバリット・ブルースマンまだ南部デルタにいた頃:1940年代の中頃までマディ・ウォーターは1915年生れですから、15歳の頃にはちょうどブルースの録音もそちらこちらで行われていて、けっこう多くの人を参考にして歌やギターを学んでいったようです。13歳頃まではハープ(ハーモニカ)を練習したようで、この頃はロバート・マッカラム(ロバート・ナイトホーク)とセッションをして練習をしていたようで、ロバートからけっこう学んだようです。1932年に最初の結婚をして、この頃に始めてギターを買って練習を始めました。最初にマスターしたのが「リロイ・カー」の「ハウ・ロング・ハウ・ロング・ブルース」と言う事です。 またこの頃に、9弦ギターで有名な「ビッグ・ジョー・ウィリアムズ」からは、「ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー」を教わったようです。1940年頃にはマディは地元でナイトクラブを経営して、ヘレナからサニーボーイ・ウィリアムソンとエルモア・ジェームスを呼んだりし、サニーボーイは自分のラジオ番組にマディ達を呼ぶといった交流がありました。
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1940年代から1970年代マディが初期にセッションした人達1942年に、ミシシッピーに訪れた「国会図書館」用の録音を別にすれば、マディの録音は1946年が最初のようです。その時は、ボーカルはマディですが、バンドはジェームス・カーターのバンドでした。「 Mean Red Spider」をやっています。メンバーは以下ですが、リーダーの「James ‘Sweet Lucy’ Carter」は、楽器は何だったのでしょう?。ホーンの入ったバンドみたいですから、まだ南部デルタのブルースを売る為の模索をしていたのでしょう。 JAMES ‘SWEET LUCY’ CARTER AND HIS ORCHESTRA
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ハープ | ギター |
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ピアノ | ベース |
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1948年。この年には、まだ18歳のリトル・ウォルターを加え、ドラムのリロイ・フォスターとジミー・ロジャースの4人で、シカゴ最強のブルースバンドを結成しています。この4人がマディのバンド・リーダーとしてのスタートメンバーと言っていいでしょう。52年にはリトル・ウォルターが『ジューク』のヒットを出して、バンドからは独立していきまが、その後もレコードには参加しています。後釜には翌年に、ビッグ・ウォルター・ホートンが入りますが、繋ぎでジュニア・ウェルズもやっています。この二人もシカゴを代表するハーピストです。 53年にはビッグ・ウォルター・ホートンのハープでマディ最大のヒット、『フーチー・クーチー・マン』を出します。この頃、ピアノのオーティス・スパンが加入して、シカゴ・バンド・ブルースとして頂点に達したと言えるでしょう。今考えても実に強力なメンバーです。 オーティス・スパン (OTIS SPANN)Born:1930 : Died:1970 「Muddy Waters Band」のピアニストでもあり、ソロでも多くのセッションに参加しています。チェスの「マディ」はもとより、「ハウリン・ウルフ」「サニー・ボーイ・ウィリアムソン」の録音、さらには「チャック・ベリー」「ボ・ディドリー」の録音にも名を連ねます。
1946年に軍に入隊、 1951年に除隊するとシカゴ行き、クラブなどで演奏を始めました。 そして、1953年には、Muddy Waters bandに加入しますが、チェスでのマディのセッションには52年に一度やっています。マディのバンドの要的な存在となり、ほとんどの録音に参加しています。
ビッグ・ウォルター・ホートン (WALTER HORTON)Born:1917 : Died:1981 Big Walter "Shakey" Hortonは、Little Walter JacobsやSonny Boy Williamson (Rice Miller)、Junior Wells、James Cottonといった戦後のシカゴ・ブルース・シーンにおいて影響力を持ったハーモニカ奏者達に匹敵する。 上記した5人の中では、Hortonは、最も無名だ。 その最大の理由は、彼が最も生産的だった時期に、彼自身のレコーディングを殆どしていないからである。 あくまでも有能なサイドマンとしてハープを吹いていたのだ。 Hortonのハーモニカ・スタイルは、甘いトーンで、他のハーモニカ奏者に比べ、強弱法には頼っていない。 彼のソロはしばしば、魂(ソウル)を揺さぶるというよりは、落ち着かせると言った方が似合う。 Hortonの創造的なハープのリフと暖かく柔軟な表現は、Johnny Shines、Willie Dixon、Otis Rush始め、戦後のブルースマン達のレコードを美しく飾っている。 Hortonは、第一次世界大戦後にMississippiで生まれたが、早い時期に、母親と共に、Memphisに移った。 1920年代後期に、手短に言えば、Memphis Jug Bandと共に公演し、レコーディングし、Memphisの道端で演奏していない時は、南部のダンス会や行楽等で演奏していた。 Hortonは、1940年代後半に、Chicagoに行くが、Modern/RPMやSunでレコードをリリースするためにMemphisに戻った。 Hortonは、1953年、長年の友人Eddie Taylorからの、彼のバンドで演奏して欲しいという申し出を受け、Chicagoに戻った。 次にHortonは、Muddy Waterのバンドで演奏し、Junior Wellsと交代した。 70年代を通じて、Hortonは、彼のブルース・クラブを補完し、しばしばWillie DixonのChicago Blues All-Starsと共に、フォークやブルースのフェスティバルに定期的に出演し、レコーディングを行なった。 1972年、彼は、仲間のブルース・ハープ奏者、Carey Bellと共に、Alligator Recordsでレコーディングを行なった。 この結果出来たアルバム"Big Walter Horton with Carey Bell"には、多くの師弟間の多くのブルース・ハープのデュエットがフィーチャーされている。 Hortonは、1981年に亡くなるまでちょくちょくレコーディングを続けた。 1年後、彼はブルースの殿堂入りした。
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