Born:1915 : Died:2006 ロバート・ジョンソンの義理の息子(4才しか違わない)としても有名ですが、独特のスタイルを持つギターの名手でもあります。1915年生まれで、義父のロバート・ジョンソンからも13歳頃に2年間程の直接指導を受けていたそうです。 ロバート・ジョンソンがロバート・ロックウッド・ジュニアの母親を追いかけて、アーカンソー州のヘレナに来た事から義理の親子関係が始まったようです。ヘレナはミシシッピ川クルーズ船の寄港地で、有数の農業地帯です。対岸はテネシー州で、上流(地図で見ると100キロくらい)にはメンフィスがあります。現在は「ブルース博物館」もあるそうです。後述しますが、ブルース界では有名な「キング・ビスケット・タイム」と言うラジオ番組の局もここにあります。 当時のロバート・ジョンソンは、ハウリン・ウルフやサニー・ボーイ・ウィリアムソン・二世(ウィリー・ライス・ミラー)と同行したりしていて、ロバート・ロックウッド・ジュニアも最初の数年をライス・ミラーに付いて廻り、後には彼の録音にも参加しています。 以前は「ロバート・ジュニア・ロックウッド」と言ってましたが、いつの頃からか「ロバート・ロックウッド・ジュニア」になっています。
ところで、長期にわたり活動しているロバート・ロックウッド・ジュニアにとり、ロバート・ジョンソンと同じように縁の深いのが「サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ」ではないでしょうか。まだ10代のロバート・ロックウッド・ジュニアを連れて2~3年間旅をしていました。そんな人ですから子供の頃から才能があったんでしょうね。 一旦別々になり、ロックウッドはセントルイスからシカゴで活動します。彼はデルタスタイルよりも新しいスタイルを求めていて、いろんなセッションを経験します。セントルイスでは「ドクター・クレイトン」ともストリートで一緒にやり、後にシカゴでクレイトンのレコーディングに参加もします。 1941年に「ブルーバード」から自身の初レコード「リトル・ボーイ・ブルー」「テイク・ア・リトル・ウォーク・ウィズ・ミー」「ブラック・スパイダー・ブルース」「アイム・ゴナ・トレイン・マイ・ベイビー」をリリースします。昔は入るだけ入れたんでしょね、4曲で1枚です。またシカゴでは「ビッグ・ビル・ブルーンジー」のバンドでもギターを弾いていました。
その後へレナに戻ると、「サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ」は「キング・ビスケット・タイム」と言うラジオ番組のジョッキーをやっており、41年頃にしばらく一緒に出演します。昼の15分番組ですが、ライブで演奏を聴かせるもので、ドラムを加えて3人でやっていました。
その後「キング・ビスケット」のライバル会社に乗り換えて、ジャズ系のバンドに入ります。この頃から後のジャズ風の演奏スタイルを始めたようです。カウント・ベイシーやルイ・ジョーダンが好みと言いますから、本来はリズム・アンド・ブルース的なバンドをやりたかったのかもしれません。 44年にはメンフィスに移り、さらにシカゴへ再度移ります。チェスでの活動もこの頃からになります。
チェスでのサニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡとのセッションはこちらで
※ブルース界では有名な話なのですが、念のために書いておきます。
(当サイトのブログから)
1940年代から1950年代にかけて、「サニー・ボーイ・ウィリアムソン」と言う、同じ名前で活動したブルースマンが二人います。二人ともブルース歌手であり、ブルース・ハーピストです。さらには、二人ともブルース史によく出てくる大物です。
日本での名前の表記が、「サニー・ボーイ・ウィリアムソン一世」と「サニー・ボーイ・ウィリアムソン二世」と言う、親子のような名前で雑誌などに掲載されるので、ちょっと違和感がありました。それに二世と言われる方は、ちょっと格下かな?、と勘違いされる事もありそうです。
実際は、二世の方が年長であり、キャリアも甲乙付けがたいものがありました。
一世のほうは、シカゴの「ブルーバード・レーベル」で録音もしている、シティ・ブルースの有名人で、「グッドモーニング・リトル・スクールガール」のヒットでも有名です。
ちなみに、一世の名前は「ジョン・リー・ウィリアムソン:1914年~1948年」で、二世は「アレック・ミラー」で、ニックネームなのかな?、「ライス・ミラー」と呼ばれます。
二世と呼ばれる「ライス・ミラー」の方が、当時の一番のメディアであった、ラジオ番組を持っていたと言う事もあり、多くのブルースマンと交流があったようで、60年代にはヨーロッパ公演にも参加したりと、後年のロックなどの人達への影響も強いです。 |