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60年代後半・70年代初頭のアメリカのロックポール・バターフィールド・ブルース・バンドPaul Butterfield :Born:1942 : Died:1987 白人ブルース・ハープの第一人者で、シカゴで生まれ、育ちました。大学生時代にはブルース・クラブを訪れ、マディ・ウォーターズのバンドなどを見て、ブルースに傾倒していったようです。 1961年に同じ大学のギタリストエルビン・ビショップと出逢い、「The Buttercups」というバンドを結成して活動(詳しい状況はわかりません)して、63年に、ハウリン・ウルフのバンドで活躍していた、ドラムのサム・レイとベースのジェローム・アーノルドを加え「Paul Butterfield Blues Band」を結成します。 そして1965年にキーボードのマーク・ナフタリンが加入して、エレクトラ・レコードから、シングル「Born In Chicago」でデビューしました。 さらに同年、カリスマ的なギタリスト、マイク・ブルームフィールドが加入して、ファースト・アルバムをリリースします。エルビン・ビショップもかなりのギタリストですが、マイク・ブルームフィールドは一枚上のようで、エルビン・ビショップはサイド・ギターになっています。 (1965年)
彼らのベストと言える2枚目です。リズムセクションも安定していて、当時はブルースの教則的にしていました。 1966年にはサム・レイが脱退し、67年にはブルームフィールド、アーノルドが脱退して、原点に戻った感じのバターフィールドとビショップは、ホーン・セクションの導入し(同じ頃、ロック・バンドにホーン・セクション入れる事は、アル・クーパーも構想していました)、ジャズ感覚の強いバンドにしていきます。
マイク・ブルームフィールドMike Bloomfield :Born:1943 : Died:1981
アル・クーパーが企画したスーパー・セッションマイク・ブルームフィールドはエレクトリック・フラッグというバンドで1枚アルバムをリリース後、1968年にはアル・クーパーが企画したセッションに参加します。後述のように、すでに1965年のボブ・ディランとの共演で知り合っています。 アル・クーパーはブルース・プロジェクト時代に、ポール・バターフィールドのバンドと何度か一緒になっていて、エレクトリック・フラッグのデビューは、クーパーがかかわった、モンタレー・ポップ・フェスティバルでした。 この人はセッションの予定が二日間にもかかわらず、一日だけやっていなくなったりして、あわてて後釜を探したりと言った、トラブルをよく起こしています。元々神経質な感じの人ですが、ドラッグから抜けられず、最後もドラッグの過多摂取で1981年に死亡しました。 やはり、名盤「フィルモアの奇蹟」のメインとなる人は、マイク・ブルームフィールドその人で、何とか初日のセッションで5曲は録音してあったので、リリースされました。これがヒットして、アル・クーパーは再度のセッションを企画し、結局4回くらいやったのではないでしょうか。当時はリリースされなかった、このセッションの一つにはデビュー前のジョニー・ウィンターも参加しています。 アル・クーパーはモントレーのフェスティバルにも、裏方として関与していて、交際の幅を広げています。やはり独特の嗅覚と言うか、プロデューサー・タイプの人には、自分の行くべき場所を嗅ぎ取っていると言うか・・・、不思議な人の一人です。 まずは、最初のセッションです。私も黒人のブルースアルバムを買う前は、これが一番のブルースアルバムとして聴いていました。当時は白人のブルースでは、異常なほどの評価を受けていました。ギターの素晴らしさは評判どうりです。マイク・ブルームフィールドが、二日間の予定が、一日だけやっていなくなったりして、後釜でステファン・スティルスが参加しています。彼の求道者的な生真面目さが、商業的な企画に対して、その様な形で悪く出てしまったのだと思います。
これが一番成功したセッションかもしれません。ライブ・アルバムでよく「フィルモア」と言う名前を見ますが、フィルモアにはイーストとウエストがあり、経営者(ビル・グレアム)の同じ劇場です。最初はサンフランシスコにあり、「フィルモア・オーディトリアム」と言っていました。1965年にオープンして、1968年の移転時に、「フィルモア・ウェスト」と改称しました。イーストは1968年にニューヨークにオープンしています。ブルースでは、フィルモア・ライブも出している、「アルバート・キング」が常連でした。 このアルバムは、1968年9月にフィルモア・ウエストで行われたもので、ゲストにサンタナ、エルビン・ビショップの名が見えますが、これは3日間行われたうちの最終日にマイクの不眠症が悪化した為の代役での参加のようで、一緒にセッションはしていないです。
ジョニー・オーティスの息子、シュギー・オーティスを迎えてのセッション。アル・クーパーのセッションもの第3弾。シャギー・オーティスがまだ15歳の時で、天才少年ギタリストと言われたプレイをたっぷり聴かせます。1969年の作品です。これだけ続くと、
アルバムのタイトルも大変そうですね。
長い間お蔵入りしていた1968年12月のフィルモア・イースト録音です。絶大な評価を得た「Super Session」をライヴで再現しようというコンセプトがありましたが、成功とは言えませんでした。チューニングが外れていたりする箇所が結構あったり、ドラムの技術なども問題があったりします。結局、ドラッグなどで問題ありの、マイク・ブルームフィールドの見事なブルースが売りです。やはり「エリック・クラプトン」も嫉妬したと言われるほどの上手さです。 ビー・ビー・キングの「It's My Own Fault」では、当時まだ無名だったジョニー・ウィンターがブルームフィールドとブルースを競演します。やはりマイク・ブルームフィールドのテイクは、当時はドル箱? アル・クーパーAl Kooper :Born:1944 :
いろいろと企画をする事では、ブルース・プロジェクト、ブラッド・スエット&ティアーズ、さらに上記のセッション・シリーズと、(成功するしないは別として)常に発想を実現してきたアル・クーパーです。 アル・クーパーが1969年にリリースした記念すべき1stソロ・アルバムです。
ソロ・アルバムもコンスタントに出していて、私が最初聴いたのはこれです。 1972年のソロ(結構出ていました)で、かつて本人はギタリストを目指していたこともあり、大胆にもアルバート・キングで有名な「アズ・ジ・イヤーズ・ゴー・パッシング・バイ」を取り上げ、自らのギター・ソロを披露しています。アル・クーパーの全身全霊を傾けた、名盤と呼ばれたアルバムです。
ブルース・プロジェクト Blues Project(1965年~)アル・クーパー、スティーヴ・カッツがブラッド・スウェット&ティアーズ結成の前に所属していたバンド。1965末~66年初頭「カフェ・オ・ゴーゴー」のライヴです。
1973年6月にセントラル・パークで開催された“シェーファー・ミュージック・フェスティバル”でのライブ。いかにもアメリカ・ロック的なゴツゴツした感じの音が良いです。 ブルース・プロジェクト・イン・セントラル・パーク(紙ジャケット仕様)
きっかけとなった、ボブ・ディランマイク・ブルームフィールドとアル・クーパーのセッションの紹介が先になってしまいましたが、彼らの存在が有名になったのは、1965年のボブ・ディランとの共演です。その時はポール・バターフィールド・ブルース・バンドが出演していて、それを見ていたボブ・ディランが気に入ってセッションを申し込んで実現しました。 ディランはすでにフォーク界のカリスマ・スターで、「風に吹かれて」などは、私が小学生でも知っていましたから、アメリカでの知名度は推して知るべしでしょう。この事で、マイク・ブルームフィールドのギターも話題となり、アメリカン・ロックでは初のギター・ヒーローとして、イギリスの3大ロック・ギタリストにも対抗できるほどのカリスマ的な人気を得ていきます。 その出世テイクを含むディランのアルバム。アル・クーパーのオルガン・プレイもこのアルバムで一躍有名になります。しかし、アルは本来ギタリストを目指していたらしく、この時にマイク・ブルームフィールドのギターが凄すぎて、ギターで参加するのをあきらめたそうです。 しかし、ディランがオルガンを入れたいと言い出したので、自分から率先して、オルガンとして参加したらしいです。アルが後述するには、ピアノは弾いてはいるが、オルガンを弾いたのは初めてだったらしいです。何とも凄いノリの話ですが、彼ら三人の共通点はユダヤ人である事で、そのあたりにキーポイントがありそうです。
エルヴィン・ビショップ(Elvin Bishop)1942年カリフォルニア州グレンデイル生まれ、オクラホマ州タルサ育ち マイク・ブルームフィールドとともにポール・バターフィールド・ブルース・バンドに在籍した為に、サイドマン的に見られがちですが、逆に、ソロアルバムは程よくバランスが取れていて、ブルース、ソウルをベースにした良い曲が揃っています。
ジョニー・ウィンター Johnny Winter1944年、テキサス州生まれ マイク・ブルームフィールドが連れて来たアルビノ(白子)の天才ギタリストです。詳しい経緯はわかりませんが、上述のセッションを見ていた、コロンビア・レコーズの偉い人が、数日のうちにはジョニー・ウィンターと契約し、ウィンターは翌年(1969年)コロンビアからデビューします。ただ、当時はジョニー・ウィンターの争奪戦がいくつかのレコード会社で行われていたらしいですから、このセッションが決め手かどうかは不明です。デビュー時には、その契約金の額から「100万ドルのギタリスト」と呼ばれました。 ジョニー・ウィンターの事を、「そのギター・プレイと歌は、まるでブルースに全身全霊を捧げた殉教者のようだ。」とアル・クーパーは言っています。 1969年のデビューアルバムです。トリオでやっており、彼のルーツである、ブルース色の強いアルバムです。レイ・チャールズの曲などもやっており、ボーカルの良さもなかなかです。
デビュー作はブルース色の強いアルバムでしたが、ロック色が強くなってきます。この2作目までは、トリオ形態でやっています。徹底して南部色の強い人で、ブルースとロックがミックスされた、独特の雰囲気を出しています。 3枚目からは、リック・デリンジャーをセカンド・ギタリストに迎え、「ジョニー・ウィンター・アンド」と呼ばれる4人組になり、スタジオ盤、ライヴ盤ともに、ロックンロール色が強くなります。このあたりは好みですが、ジョニーの場合は何をやっても「独特の骨太さ」があるので、良いと思います。
ドラッグにより一時リタイアしていたジョニー・ウィンターの、スタジオ作としては1970年の「Johnny Winter And」 以来となる1973年の作で、私としては、リアルタイムで聴いた最初でもあり、一番良いと思います。ビー・ビー・キングの「ロック・ミー・ベイビー」を聴いて、こんなアレンジもあるんだなと感じたものです。すでに、ベテラン的な貫禄もあります。マディ・ウォーターズ復活の手助けもしていて、70年代後半~'80年代初頭には、アルバム3枚をプロデュース・演奏もしています。マディのライブ盤は右上に掲載してます。 やはり、ライブで本領を発揮するタイプです。まさに狂乱のライブ |
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