60年代のロック音楽への影響も大きい!
マディ・ウォーターズへ
マディのバンドで活躍。晩年のマディにも協力。
ジェームス・コットンへ
強烈なヴォーカルとワイルドなバンドが魅力。
ハウリン・ウルフへ
ハードなブギならおまかせ。
ハウンド・ドッグ・テイラーへ
パワフルなブルース・ウーマン。
ココ・テイラー
玄人好みの名人ギター。
アール・フッカーへ
サニーボーイⅡと活動。ロバート・ジョンソン直伝のギターに磨きをかけた。
ロバート・ロックウッド・ジュニアへ
70年代の名コンビ。
バディ・ガイ&ジュニア・ウェルズへ
戦前から戦後にかけて、ビッグ・ビル・ブルーンジー達を中心に盛り上がったシティ・ブルースから、もっとアーシーな、より南部の力強さを感じさせるブルースが人気になってきます。流行とはそんなもので、洗練度が進むと荒削りな方に戻されてくるのが常です。
とは言っても、いろんなタイプがありまして、ただカントリー・ブルースに戻るのではなく、その力強さを取り戻すような流れです。マディ・ウォーターズにしても、シカゴに出てからの最初の相棒であるジミー・ロジャースにしても、ブルース・ハープの革命者リトル・ウォルターにしても、都会的なブルースにあこがれていました。
現に、当時のシカゴでは「ナット・キング・コール」「ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズ」と言った、洗練されたジャジーなグループが人気でした。シティ・ブルースでも、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ビッグ・メイシオ、タンパ・レッド、サニー・ボーイ・ウィリアムソン、メンフィス・スリムと言った面々が活躍していました。
元は、1947年(48年とも?)にポーランド系移民であるレナードとフィルのチェス兄弟(女性パートナーもいた?)が設立した「アリストクラット」と言う会社で、ブルースだけというわけではなく、ジャズ、スピリチュアルなども録音していました。後にチェス兄弟が「チェス・レコード」を設立(1950年)します。その時に「アリストクラット」は「チェス」に吸収されています。
1948年にマディ・ウォーターズの「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」が大ヒットし、これからデルタ・ブルース・タイプの曲が売れると主にレナードが判断したと思われます。南部の配給網の確立や、録音する為のブルースマンを捜したり、この辺の経営者としての手腕はかなりのものでしょう。
当時は南部でもラジオが重要なメディアで、メンフィスは最大級のブルース専門番組を組む局もあり、ビー・ビー・キング、リトル・ジュニア・パーカー、ロスコー・ゴードン、ジョニー・エイス、ボビー・ブランドらが集まり、「ビール・ストリーターズ」などと言う伝説的なバンドを作ったとか聞きます。おそらく時々セッションするメンバーだったのだと思います。こんなにビッグ・ネームが集まってもまとまるものじゃないですしね。
ビー・ビー・キングもラジオのディスク・ジョッキーをやっていました。サニーボーイ・ウィリアムソン・二世の「キング・ビスケット・タイム」はアーカンソー州ヘレナの名物番組で、ロック・ウッドも一緒でした。ちなみに「キング・ビスケット」は製粉会社のブランドです。ヘレナはメンフィスからそれほど遠くないミシシッピ河の下流の町です。
デトロイトでジョン・リー・フッカーが「ブギ・チレン」を、メンフィスではジュニア・パーカーが「ミステリー・トレイン」を、そしてチェスからはリトル・ウォルターが「ジューク」と言った大ヒット(かなりのヒットを記録するのは、だいたいダンス・ナンバー)を出して、50年代のブルース黄金時代と言った頃です。
50年代も半ばになると、チェスはチャック・ベリーやボ・ディドリーでロックン・ロールの流行に対応します。50年代後半はジミー・リードがダウン・ホームヒットを連発するものの、シカゴの黒人シーンではブルースは下火になります。
メンフィスもロカビリーの台頭で、ブルースマンは他の地に移り始めます。チェスもチェッカー・レーベルを作り、リトル・ミルトン、ローウェル・フルソンやソウル系のアルバムに力を入れていきます。
60年代はデルタ系のシカゴ・ブルース第一世代に代り、アーバン系(テキサス系が多い)の第二世代の人達が出てきます。それでも、第一世代のブルースもヨーロッパ・ツアーをきっかけに、新しいブルース・ブームが白人のロック世代から生まれてきます。
現に、当時のシカゴでは「ナット・キング・コール」「ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズ」と言った、洗練されたジャジーなグループが人気でした。シティ・ブルースでも、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ビッグ・メイシオ、タンパ・レッド、サニー・ボーイ・ウィリアムソン、メンフィス・スリムと言った面々が活躍していました。