Born:1915 : Died:1983 この人も多くのレコードがあり、確か10枚組くらいのセットもあると思います。ですから、ここで紹介するのはほんの一部です。ブルースのみならず、ロックミュージシャンにも多くの影響を与えた人で、エレクトリックギターでのボトルネック奏法の開拓者です。彼のバンドからは多くの一流ブルースマンが育ちました。 1915年生まれのマディ・ウォターズ(本名:マッキンリー・モーガンフィールド)は、43年にシカゴへ出ます。45年にはいとこのブルースマンであるジェシー・ジョーンズを通じて、強力な相棒になるギターのジミ-・ロジャースと出逢います。ジミー・ロジャースは最初ハープも吹いていました。お決まりのようにハウス・レント・パーティーやクラブなどに出たりしていました。 この頃にサニー・ボーイ・ウィリアムソン1世(ジョン・リー・ウィリアムソン)と仕事をしたりしています。サニー・ボーイ・ウィリアムソンは37年にすでに録音をしていますから、10年くらいも先輩になります。また、この時にサニー・ボーイ・ウィリアムソンと組んでいたのはピアノのエディ・ボイドでした。サニー・ボーイ・ウィリアムソンはすでにアルコールに溺れていました。よくある事です・・・ マディ・ウォターズは46年頃から録音を始めていますが、リリースされたのは48年になってからです。ベースのビッグ・クロフォードと二人だけの録音ですが、47年録音の「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」は48年にやっとリリースされて、初回のプレス3000枚を2日間で売り上げ、マディ・ウォターズは一気に有名人になります。 前述のように、この頃録音された曲はほとんどがリリースされないか、遅れてリリースされました。1年戻り47年にはまだ無名のままのマディですが、サニー・ランド・スリムの口利きで、やっとアリストクラット(後のチェス・レコード)で仕事が出来るようになりました。 この時のサニー・ランド・スリムの「ジョンソン・マシン・ガン」は、マディのサイド・ギターとビッグ・クロフォード(当時はメンフィス・スリムのべースをやっていた)のべースで録音されました。マディ自身もメインで録音しますが、相変わらず認められませんでした。 R&Bやジャンプ・ナンバーがヒットし、ナット・キング・コールのような洗練されたボーカルがうけていた都会のシカゴでは、マディのようなスライド・ギターのカントリー・ブルースのスタイルは売れないと思われたんでしょうね。ちなみにこの時のサニー・ランド・スリムの「ジョンソン・マシン・ガン」とマディの「リトル・アンナ・メイ」のテイクはかなり素晴らしいと私は思います。 バンドの方はすごい進歩で、この年にはまだ18歳のリトル・ウォルターを加え、ドラムのリロイ・フォスターとジミー・ロジャースの4人でシカゴ最強のブルースバンドを結成しています。52年にはリトル・ウォルターが『ジューク』のヒットを出して、バンドからは独立していきまが、その後もレコードには参加しています。後釜には翌年に、ビッグ・ウォルター・ホートンが入りますが、繋ぎでジュニア・ウェルズもやっています。この二人もシカゴを代表するハーピストです。 53年にはビッグ・ウォルター・ホートンのハープでマディ最大のヒット、『フーチー・クーチー・マン』を出します。この頃、ピアノのオーティス・スパンが加入して、シカゴ・バンド・ブルースとして頂点に達したと言えるでしょう。
今考えても実に強力なメンバーです。 よくハウリン・ウルフ のバンドと比較して聴いてしまいますが、私が感じるのはマディのバンドは南部のスタイル、雰囲気、その他いろいろなものを、そのままシカゴの持ってきて電気化したバンドと言う印象で、ウルフのバンドは常にウルフのボーカルを最大に活かせる構成と言う気がします。 ※当初の録音は『アリストクラット』でのものです。後にチェス兄弟が・『チェス・レコード』を1950年に設立しますが、その時に『アリストクラット』は吸収されています。 |