元は、1947年(48年とも?)にポーランド系移民であるレナードとフィルのチェス兄弟(女性パートナーもいた?)が設立した「アリストクラット」と言う会社で、ブルースだけというわけではなく、ジャズ、スピリチュアルなども録音していました。後にチェス兄弟が「チェス・レコード」を設立(1950年)します。その時に「アリストクラット」は「チェス」に吸収されています。 1948年にマディ・ウォーターズの「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」が大ヒットし、これからデルタ・ブルース・タイプの曲が売れると主にレナードが判断したと思われます。南部の配給網の確立や、録音する為のブルースマンを捜したり、この辺の経営者としての手腕はかなりのものでしょう。 当時は南部でもラジオが重要なメディアで、メンフィスは最大級のブルース専門番組を組む局もあり、ビー・ビー・キング、リトル・ジュニア・パーカー、ロスコー・ゴードン、ジョニー・エイス、ボビー・ブランドらが集まり、「ビール・ストリーターズ」などと言う伝説的なバンドを作ったとか聞きます。おそらく時々セッションするメンバーだったのだと思います。こんなにビッグ・ネームが集まってもまとまるものじゃないですしね。 ビー・ビー・キングもラジオのディスク・ジョッキーをやっていました。サニーボーイ・ウィリアムソン・二世の「キング・ビスケット・タイム」はアーカンソー州ヘレナの名物番組で、ロック・ウッドも一緒でした。ちなみに「キング・ビスケット」は製粉会社のブランドです。ヘレナはメンフィスからそれほど遠くないミシシッピ河の下流の町です。 デトロイトでジョン・リー・フッカーが「ブギ・チレン」を、メンフィスではジュニア・パーカーが「ミステリー・トレイン」を、そしてチェスからはリトル・ウォルターが「ジューク」と言った大ヒット(かなりのヒットを記録するのは、だいたいダンス・ナンバー)を出して、50年代のブルース黄金時代と言った頃です。 50年代も半ばになると、チェスはチャック・ベリーやボ・ディドリーでロックン・ロールの流行に対応します。50年代後半はジミー・リードがダウン・ホームヒットを連発するものの、シカゴの黒人シーンではブルースは下火になります。 メンフィスもロカビリーの台頭で、ブルースマンは他の地に移り始めます。チェスもチェッカー・レーベルを作り、リトル・ミルトン、ローウェル・フルソンやソウル系のアルバムに力を入れていきます。 60年代はデルタ系のシカゴ・ブルース第一世代に代り、アーバン系(テキサス系が多い)の第二世代の人達が出てきます。それでも、第一世代のブルースもヨーロッパ・ツアーをきっかけに、新しいブルース・ブームが白人のロック世代から生まれてきます。
マディ・ウォーターズ(MUDDY WATERS)
Born:1915 : Died:1983 戦後間もない50年頃のシカゴには、多くのブルースプレーヤーがいて、またいたるところに演奏の場があり、シカゴ・ブルースシーンは、最も活況を呈していました。このコーナーでは、当時を代表するブルースマンであるマディ・ウォターズを中心に御紹介します。 彼は、デルタ・スタイルを、シカゴと言う都市にそのまま持って行き、エレクトリック・バンドスタイルに進化させて行きます。そしてそれは、後のブルース・バンドのみならず、ロック・バンドにも多くの影響を与えます。 1915年生まれのマディ・ウォターズは、43年にシカゴへ出ます。45年にはいとこのブルースマンであるジェシー・ジョーンズを通じて、強力な相棒になるギターのジミ-・ロジャースと出逢います。ジミー・ロジャースは最初ハープも吹いていました。お決まりのようにハウス・レント・パーティーやクラブなどに出たりしていました。 この頃にサニー・ボーイ・ウィリアムソン1世(ジョン・リー・ウィリアムソン)と仕事をしたりしています。サニー・ボーイ・ウィリアムソンは37年にすでに録音をしていますから、10年くらいも先輩になります。また、この時にサニー・ボーイ・ウィリアムソンと組んでいたのはピアノのエディ・ボイドでした。サニー・ボーイ・ウィリアムソンはすでにアルコールに溺れていました。よくある事です・・・ マディ・ウォターズは46年頃から録音を始めていますが、リリースされたのは48年になってからです。ベースのビッグ・クロフォードと二人だけの録音ですが、47年録音の「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」は48年にやっとリリースされて、初回のプレス3000枚を2日間で売り上げ、マディ・ウォターズは一気に有名人になります。 前述のように、この頃録音された曲はほとんどがリリースされないか、遅れてリリースされました。1年戻り47年にはまだ無名のままのマディですが、サニー・ランド・スリムの口利きで、やっとアリストクラット(後のチェス・レコード)で仕事が出来るようになりました。 この時のサニー・ランド・スリムの「ジョンソン・マシン・ガン」は、マディのサイド・ギターとビッグ・クロフォード(当時はメンフィス・スリムのべースをやっていた)のべースで録音されました。マディ自身もメインで録音しますが、相変わらず認められませんでした。 R&Bやジャンプ・ナンバーがヒットし、ナット・キング・コールのような洗練されたボーカルがうけていた都会のシカゴでは、マディのようなスライド・ギターのカントリー・ブルースのスタイルは売れないと思われたんでしょうね。ちなみにこの時のサニー・ランド・スリムの「ジョンソン・マシン・ガン」とマディの「リトル・アンナ・メイ」のテイクはかなり素晴らしいと私は思います。 この年には、まだ18歳のリトル・ウォルターを加え、ドラムのリロイ・フォスターとジミー・ロジャースの4人で、シカゴ最強のブルースバンドを結成しています。52年にはリトル・ウォルターが『ジューク』のヒットを出して、バンドからは独立していきまが、その後もレコードには参加しています。後釜には翌年に、ビッグ・ウォルター・ホートンが入りますが、繋ぎでジュニア・ウェルズもやっています。この二人もシカゴを代表するハーピストです。 53年にはビッグ・ウォルター・ホートンのハープでマディ最大のヒット、『フーチー・クーチー・マン』を出します。この頃、ピアノのオーティス・スパンが加入して、シカゴ・バンド・ブルースとして頂点に達したと言えるでしょう。今考えても実に強力なメンバーです。 ※当初の録音は『アリストクラット』でのものです。 |