エリック・クラプトンとビー・ビー・キング・メニューエリック・クラプトンとビー・ビー・キング|ビー・ビー・キング|エリック・クラプトン|クラプトン2|クラプトン3|前ページへ戻るブルース・ロック(米国1)|エリック・クラプトン2010年追加| |
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エリック・クラプトンのアメリカでの活動アメリカ・ツアー1969年にブラインド・フェイスの全米ツアーが行われ、前座としてデラニー&ボニーが起用されます。彼らのサウンド(音楽に対する考え方そのものを含めて)を気に入ったクラプトンは、このツアー中に解散してしまったブラインド・フェイスをよそに、そのままデラニー&ボニー&フレンズのメンバーとしてツアーを続けます。この時初めて、クラプトンは「音楽を楽しむ」と言う事を知ったようです。 彼らとイギリス・ツアーなども行い、デラニーのプロデュースで、初のソロ・アルバムをレコーディングします。デラニー・ブラムレットの勧めで、歌う事にも力を入れます。一緒にツアーをするなかで、プロデュースもデラニーが担当した、1970年発表の初のソロアルバムです。
さらに、彼らのバック・バンドのメンバー3人とデレク&ドミノスを結成し、「Layla And Other Assorted Love Songs」を製作します。1970年の「Layla:いとしのレイラ」を含むこれを、クラプトンのベストと言う人も多いです。 実際、私も最初に聴いたクラプトンはこれになりますが、その後にクリームをさかのぼって聴きました。ジム・ゴードン(ドラム)とカール・ラドル(ベース)のリズムに、デュアン・オールマンとの「レイラ」でのギター・コラボは名演と呼ばれるにふさわしいものがあります。 Layla and Other Assorted Love Songs : Derek & The Dominos 国内盤 : いとしのレイラ ソロ活動のきっかけはデラニー&ボニー夫婦デュオ「デラニー&ボニー」の、夫であるデラニー・ブラムレット(1939年ミシシッピ州生れ)は、少年時代から黒人音楽の影響を受け、60年代にロサンゼルスヘ移住してミュージシャンとして活動します。 そこで知り合い、結婚した妻のボニー・ブラムレット(1946年イリノイ州生れ)は、60年代の初め頃からアルバート・キングなどのバック・コーラスをしていたようで、アイク&ティナ・ターナーのコーラス・メンバーにも加わります。アイク&ティナ・ターナーと共に、ロサンゼルスへ移住し、デラニー・ブラムレットと知り合います。 また、デラニー&ボニーは白人として初めて、メンフィスのソウル・レーベル「スタックス」と契約し、レコーディングもしています。当時のスワンプ・ロックを代表するグループと言えます。 ちなみに、1969年当時のアルバムのメンバーを見ると、その顔ぶれに圧倒されます。アルバム:Accept No Substitute(オリジナル・デラニー&ボニー)では、レオン・ラッセル(ピアノ、ギター、アレンジ)、ドクター・ジョン(キーボード)の大物に加え、ジェリー・マッギー(ギター)、ボビー・ウィトロック(キーボード)、カール・レイドル(ベース)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、リタ・クーリッジ(ボーカル)、ジム・プライス(トランペット、トロンボーン)、ボビー・キーズ(サックス)と言った顔ぶれで、スタジオ・セッションマンとしても見かける名前です。 真の意味でのソロ活動3年間の充電期間を置き、74年に発表されたスタジオ・アルバム。デレク&ドミノスのカール・レイドルやイヴォンヌ・エリマンなどをゲストに迎えて制作しています。J・J・ケイルあたりから始まった、「レイドバック」の言葉が定着したのも、このアルバムではないでしょうか。タイトルは録音スタジオの住所で、曲のタイトルには結構ありますね。 当時のクラプトンはボブ・マーリーのライブに、観客としてよく行っていました。それをさっそくカヴァーして「I Shot The Sheriff」をヒットさせるあたりは、クラプトンならではです。この曲でレゲエが世界的に認知されたのではないでしょうか。 ロバート・ジョンソンの「Steady Rollin' Man」のアレンジも、なかなかカッコ良いです。「I Can't Hold Out」「Willie And The Hand Jive」など、ブルース、R&Bのカヴァーも忘れていません。この後のロックに深い影響を与えたアルバムだと思います。1974年発表の名盤中の名盤。オリジナル版
リリース30周年を記念してのデラックス・エディション版。ディスク1は、デジタル・リマスターを施したアルバム収録曲にセッション・アウトテイク5曲を加えた全15曲を収録。ディスク2には、1974年12月にハマースミス・オデオンで行われたライブ11曲を収録しています。 デラニー&ボニーThe Original Delaney & Bonnie (オリジナル・デラニー&ボニー)
1969年の作品ですが、これの前にスタックスで録音(同年)された「Home」があります。それの発売が見送られた為、これがファースト・アルバムになります。スワンプ・ロックを代表するアルバムです。先に書きましたように、強力なメンバーによるバッキングと、それに負けない、ソウルフルなボーカルがとても良いです。 レオン・ラッセル (born:1942)Carney : Leon Russell1972年の3枚目のアルバムです。1曲目のタイトロープがヒットして、最初に聴いた時は不思議な雰囲気の曲だなと思いました。美しい曲も作るし、ドロドロした曲も作り、独特のダミ声で歌います。カーペンターズ、ジョージ・ベンソンもカヴァーした名曲「マスカレード:This Masquerade」も含む、スワンプ・ロックの好アルバムです。
1969年の製作(英国ロンドン録音)のデビュー作です。名曲「ソングフォーユー」から、アクは強いですが良い曲が並びます。メンバーも当時のデラニー&ボニー&フレンズつながりで、アメリカ、イギリスの有名どころ(ビートルズ、ストーンズのメンバー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、チャーリー・ワッツ、ビル・ワイマンなど)が、多数参加しています。このアルバムの製作が、シェルター・レコードを設立するきっかけとなります。 ※話が前後しますが、デラニー&ボニー&フレンズのイギリス・ツアーの時、イギリスのプロデューサー「デニー・コーデル」に気に入られ、その時に依頼されてプロデュースしたのが、イギリスのソウルフルなヴォーカリスト「ジョー・コッカー」です。 ※シェルター・レコード設立ではデニー・コーデルが社長で、レオン・ラッセルが副社長になります。 ジョー・コッカー:1944年生まれ 1969年のソロ・デビューアルバム。ビートルズの「With A Little Help From My Friends」をカヴァーして、ひじょうにカッコ良くやっています。リンゴ・スターがヴォーカルを取っていた曲ですが、あまりに違うので気が付かないかも・・・、スタックスのソウルマン「オーティス・レディング」の影響が強く出ている頃で、まだ若さ(渋いけど)を感じます。
1969年のセカンド・アルバムレオンが提供した「デルタ・レディ」がヒットして、この後にアメリカ・ツアーなどもやり、アルバム製作などもやります。体をくねらせて、全身全霊をこめて、トランス状態のようになって歌う姿は、ひじょうに印象的です。とにかく酒でつぶれたのか、声がハスキーで良いです。楽器を持たないロッカーと言う感じで、歌だけが勝負の、得がたいロック・ヴォーカリストです。
1970年にレオン・ラッセルを含めて、「マッド・ドッグス・アンド・イングリッシュメン」と銘打ち、アメリカ・ツアーを展開します。レオン・ラッセルを中心に総勢43名のオールスター・メンバーのバンドで、2ヶ月間で60回以上ものライブを行った時のライブ盤です。
ドクター・ジョンGUMBO (ATCO) : DR. JOHN (1972)
ニューオリンズの名物ボーカル・ピアニスト。アン・アーバーにも出演してます。とにかくいろんな所に顔を出す人で、個性的なダミ声とニューオリンズの様々なピアノ・スタイルをマスターしてる人です。ジャズ・スタイルのアルバムやフュージョン・アルバム等、とにかく多才です。どんなスタイルでやっても強烈な歌声ですから、すぐわかります。南部の雰囲気が一杯のこのアルバムが、最もニューオリンズ的です。 この時期の録音では、上記のミーターズがバックを務めた、『イン・ザ・ライト・プレイス』もあります。こちらは、ニューオリンズ・ファンクと言った感じです。どちらも、名盤です。 ZUZUMAN (P-VINE) : DR. JOHNこちらは、73,74年にリリースされた2枚からの編集盤で、とにかく色々なタイプの曲が網羅されていて面白いです。時々ポップで変な曲もあったりしますが、カッコいい曲はなかなかカッコいいです。 この時期の録音では、上記のミーターズがバックを務めた、『イン・ザ・ライト・プレイス』もあります。 かなり良い選曲のベスト盤→Mos' Scocious : The Dr. John Anthology ガンボの曲からイン・ザ・ライト・プレイスなども入っていて、これ良いです。 ※ドクター・ジョンの比較的近作(1990年頃から~最近2008年)も、アルバムごとに得意の変幻自在のスタイルで楽しませてくれます。
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